ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』をまだ挫折せずに少しずつ読んでいる。
この小説の中に気になるセリフがあった。
セリフの主は、町中の人から尊敬を集める大金持ちだ。
努力して貯金した先に待っているのは孤立?
彼によると、現代社会は「孤立の時代」だという。
猫も杓子も「できるだけ自分を目立たせようとして努力」するが、努力の結果に得るものは「自己喪失」だ。
なぜ自己喪失するかといえば「孤立」しているからだ。
この小説の舞台は19世紀のロシアだが、現代でもあてはまりそうだ。
なぜ人は「いかに自分を目立たせようと努力」するのか。
その先には「カネが稼げる」という結果があるから。
小説の彼も「努力」の結果成功して、莫大な資産を築いた。
でも、こんなむなしいセリフを吐く。
一人でこっそりと富を貯えては、こう独りごちている。わたしはいまどんなに強くなったことか。どんなに安定していることか。しかし哀れにも、富を貯えれば貯えるほど、自分が自殺的というべき無力のなかに沈んでいくことに気づいてはいません。なぜなら、自分だけを頼みとすることになれ、一個の単位として全体から切りはなされて、人の助けとか、人間とか人類なんか信じないように自分の心を馴らして、ただ自分のお金や、自分が勝ちえた権利がなくなってしまうのではないかとおびえているからです。
個人の顔をまことに保証するものは、個人の孤立した努力のなかにではなく、人間全体の一体性のなかにこそあるといった考えなどを、人間の知性はいまやいたるところで鼻で笑い、まともに相手にしようともしません。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟 2』(亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫 2006) pp.409-410
自分の貯金だけを頼りにして、何でも自力で何とかしようとするのは、一見「努力家」に見えるが、実は「人間不信」「孤立」の産物なのだ。
と、ドストエフスキーが指摘しているように感じた。
一生遊んで暮らせて、あちこちに寄付できるくらい貯金を作っても、「人間不信」があるかぎり「失う恐怖」はなくならないものなのか。
孤立は高コスト
今思い出したが、以前「自分のお金を使わないで生きていくために必要なたった一つのスキル」という記事でこう書いた。
社会から孤立して、自分の貯金だけを頼りに生活するというのは、考えてみれば最も高コストな生活かもしれない。
ひとりで好きなことができるというのはセミリタイア生活の醍醐味であり、大きな楽しみの一つとなっている。
が、「孤立は高コスト」であるという現実も頭に入れる必要がある。