『40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。 新・ミドルエイジ論』(成毛 眞(著),PHP, 2013)を読んだ。
サラリーマンは40歳を過ぎたら、ストレスの多い本業はほどほどにして、趣味やサイドビジネスに重点を移していったほうが楽だ、という提言だ。
収入が給料だけだとリスクが高いからサイドビジネスでカバーしろ、というのではない。
サラリーマンという職業自体が人生をかけて打ち込むほどのものではなくなっているから、そんなに一生懸命になっても報われない。もっと現実的に人生を見つめなおしましょうということだ。
「嫌なら辞めろ」というのではなく、会社に籍を置きながら頑張っているふりをする。
会社を物理的に退職するのではなく「精神的に退職」しましょう、ということだ。
綱引きで言えば、力のない中高年は本当に力いっぱい引いて体を痛めるより、綱を軽く持って一生懸命引いているふりをした方が楽だ。
力仕事は若手にどんどん振って楽しよう。
タオルを水で濡らしておいて顔を吹けば汗をかいているように見せかけられる。
若い時は腕力、年をとったら演技力だ。
サラリーマンはすべて”負け組”
そもそも資本主義社会においては、資本家になるのが最終目標であり、社内で出世してもあまり意味がない。そもそも、サラリーマンはすべて”負け組”なのだ。
出世争いなど、完全に会社に飼われている人たちのやることなのだから、自分はそれに巻き込まれず、マイペースで過ごすのがいちばんである。
これは昇進できないことに苦しんでいるサラリーマンにとっては気が楽になる言葉だ(本当は昇進できないくらいで苦しむ必要なんかないのだけど)。
優良企業のオーナー社長以外のビジネスパーソンは全員負け組なのだ。
「勝ち組サラリーマン」「金持ちサラリーマン」というのは矛盾した言葉だ。
サラリーマンで金持ちになれるのなら、誰も会社経営や投資なんてバカらしくてやらないだろう。
毎日、満員電車に押し込まれて会社に通い、無機質なビルで一日を過ごすホワイトカラーなど、大した仕事をしていない。そう考えれば、会社での仕事に生きがいを求めるのは、かえって空しいものだ。
東京の満員電車は未経験だが、エネルギーの8割は通勤で消費されているのではないか。
わたしが会社を辞めた理由の一つが「通勤が苦痛すぎた」からだった。
「悩む」ためでなく「楽しむ」ために生きる
残りの人生の時間は、悩むために使うのではなく、楽しむために使うべきだ。
本書でいちばん心に響いた言葉。人生も後半になると、「いかにたくさん稼ぐか」よりも「いかに残りの時間を楽しく過ごすか」の方が大事になる。
「定年まで我慢しよう、そうすれば悠々自適の老後が待っている」という幻想は抱くことができなかった。
もし定年まで20年近く「我慢」したら、定年退職後はヒトの抜け殻が残るだけだろう。
ひょっとしたら我慢のし過ぎで50代で早死するかもしれなかった。
そもそも定年まで我慢する、という非人間的な行為を20年も続ける自信も気力もなかった。
経済的に早期リタイアが可能という見込みがついた時点で「悩む人生」から「楽しむ人生」へ大きく舵を切り替えた。