格差のない世界は残酷な世界

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格差のない平等な世界とはこんなに残酷なのか。為末大著『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』では、「完全な機会平等のフラットな社会」の残酷さを次のように記している。

もしまったく階級がない、完全な機会平等のフラットな社会があったとしたら、成功できなかった理由についてこんなふうに言われるだろう。

「きみが成功を手にすることができなかったのは、努力と熱意が足りなかったせいだ」

階級がないのだから、人は等しくチャンスを与えられる。それを生かすも殺すも、それは努力と熱意によるという建前がある。しかし階級があると、社会システムに対して恨みをぶつけたり攻撃することができる。


完全に平等な世界=結果がすべて自己責任の世界

こんな厳しい世界に耐えられる人はいないだろう。嫉妬心をぶつける対象が自分自身しかないのだから。

本書では「格差」とは「才能の差」だとしている。才能のない人が努力だけで才能のある人に追いつくのは苦痛でしかないという。

「ほら、イチロー選手は何千回、何万回バットを振ったからこそあそこまでの選手になったのだから、きみたちもがんばって振りなさい」

才能のない人には、イチロー選手と同じ練習量は苦痛であるばかりでなく、成果につながらないという意味で二重につらいことなのである。


凡人にとって「努力」とは才能を伸ばすためではなく、「努力」自体が他者にアピールするためのパフォーマンスに過ぎないと思っている。

残業、台風で電車が止まっても徒歩出勤、居残り練習、、、色々な「努力」をして認めてもらおうとする。しかし、もともと持っていない才能は伸るはずがなく、夢は実現しない。無駄な時間だけが過ぎていく……。

「ここにいても時間と労力の無駄だ」

このことに早く気づいて転身できる能力。

それが本書のタイトルの「諦める力」だと思った。

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