実用性無視の平安京は住みにくく、やがて京都となった

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紫宸殿2019

平安京はいらなかった』(桃崎 有一郎(著), 吉川弘文館, 2016)を読んだ。

わたしは関西に長く住んでいるが、本書を読んでいかに平安京(と京都)のことを知らなかったか、痛感した。

本書を読む前に平安京に対して持っていたイメージは、

「奈良の平城京から都を山城国(現在の京都南部)に移転するため、唐の首都である長安をモデルに碁盤目状の都市を794年に造り、1000年以上続いた」

といったものだった。

が、このイメージは「幻想」だった。

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実用性無視の都

確かに、唐の長安をモデルにした碁盤目状の都市を造ろうとした。

参照平安京オーバーレイマップ(立命館大学アート・リサーチセンター)

が、実用性を無視したために非常に住みにくい都市となった。

例えば、平安京の中央を南北に通る朱雀大路(幅が80m以上!)は「進入禁止」だった。

朱雀大路に面して門を作ることは禁止だったので、道路に面した家から朱雀大路に出入りできない。

なので道の両端はすべて「塀」となり、朱雀大路が「ベルリンの壁」のように都の東西を分断するような形となった。

80mを超える平安京のメインストリートは、ほとんど来ない外国の使節の通行や、天皇の代替わりに行われる大嘗会くらいにしか使われない「使えない道路」だった。

生活道路として使えないので、庶民が道幅の広さを活かして牛馬の「放牧場」として使ったり、盗賊の巣窟になったりした。

都の西部が衰退

平安京は住みにくい都でもあった。

西側の「右京」は、桂川が作る「湿地帯」が多く、人が住むのに適しなかった。

なので、平安京の東側である「左京」と比べて衰退して、北西部は人が住まず、南西部は手つかずの自然が残り、平安京の形は「四角形」とはならなかった。

特に南西の端の方は桂川の川岸と接触するほど近づいており、そもそも人が住める土地を開発できそうにない(設計段階でわかりそうなものなのに)。

都城の内部は原則として宅地利用されるはずだが、北西部は人が住んだ痕跡がなく、南西部は開発自体がなされていないのである。

本書 p. 114

つまり、日本史の教科書に載ってるような「平安京の図」は実現することはなかった。

武士が平安京を京都に変える

平安京は、大火事が何度もあったが、実用性のない建物群が再建されることはなかった。

例えば、天皇の御所と官庁街である「大内裏」は火災後には放置されて「廃墟 + 野原」となり、「内野うちの」と呼ばれるようになった。

鎌倉時代以降、武士が平安京に入り、鎌倉幕府・室町幕府・信長・秀吉・江戸幕府が実用性重視の都「京都」に作り変えていく。

【2020.7.19追記】平安京のわかりやすい解説動画

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