日本人なら誰しも「働かないこと」に罪悪感を感じたことがあると思う。
早期退職しても、「ふつうは定年まで会社にしがみつくのに、自分だけさっさと退職して好きなことをやっている」ことに何となく違和感を感じることがある。
サラリーマン時代は、みんなが残業している時に自分だけ定時に帰ると、なんとなく申し訳ない気持ちになった。逆に、自分が毎日残業しているのに毎日定時で帰る同僚を見ると、羨ましくもあり腹立たしくもあった。
なぜ、「働かないこと」「自由なこと」に違和感を感じるのか。
「稲作」が自由を抑制
こんな疑問に答えてくれたのが、竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫 2013) だった。
個人が働くか働かないかを自由に選べない、個人がやりたいことを自由にできない理由は「日本列島で稲作をすることで生き延びてきたから」であった。
詳しくは本書を参照してほしいが、日本列島で稲作をするというのはかなり難しいのだ。
山の多い地形、せまくて水はけの悪い平野、水不足、洪水、台風……このような厳しい自然とたたかいながらコメを作るのは重労働をともなった。
しかも稲作ができるのは1年のうち初夏~秋の半年しかない。
稲作可能期間に収穫できなければ、みんな餓死してしまう。
村人全員が協力しあって効率的に働き、必ず結果を出さなければ死んでしまう。
日本人にとって「働かない=死」だったのだ。
働き方も「集団が最優先」になり、個人の自由が許される余地はなかった。
日本列島の稲作は個人では立ちゆかず、集団の力で田を作り、水を引き込み、洪水を防ぎ、収穫をする。その営みの中では個人のわがままは許されない。米のために人々は否が応でも協力しなければならなかった。
p.248
「全員が働かないと死んでしまう、だから働け」というのは、2000年以上前の弥生時代に日本で稲作が始まって以来の伝統だったのだ。
弥生時代から2000年以上続くDNA
現代の日本人は稲作で生計を立てる人は少数派になった。
稲作自体も機械化・IT化がすすんで重労働ではなくなった。
労働の主流は稲作からオフィスワークになった。
日本人全員が自由を抑制して集団最優先で重労働に従事する必要はなくなった。
しかし、「全員で効率的に働かないといけない」「自由に好きなことをしてはいけない」という弥生時代に始まって2000年以上持ち続けている稲作文化のDNAを変えるのは難しい。
でも今は、個人がそれぞれ自由にやりたいことを仕事に選んだくらいで餓死なんかしないし、他人に迷惑をかけることはない。
ぶっちゃけ、無理して働かなくても死ぬことはない。
やりたいことをやっていいのだ。